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2009年01月 アーカイブ

2009年01月05日

アリス・デー

アリス・デー(Alice day)は、欧米の少女愛者および少女愛運動でつかわれる少女愛記念日で、毎年4月25日。

4月25日は、『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルが、アリス・リデルとはじめて出会った日。これはルイス・キャロルのアリスへの愛情を理想とし、少女への愛が、無私なもの、無条件的なもの、そして少女が大人に成長した後も不変的なもの、であることを象徴するという。

4月25日からアリス・リデルの誕生日である5月4日までの10日間を、少女愛週間とする運動もある。画像の2重のハートは少女愛運動のシンボル。

国際女性少女愛協会(The International Female Girllovers Collective、略称IFgLC)は、女性による少女愛を肯定する女性少女愛運動の団体。

2001年に設立された。年少の少女を愛するレズビアン女性の団体で、拠点はヨーロッパ、おそらくオランダ。主催者・会員数などは不明。公式サイトは、バタフライ・キッス(外部リンク参照)。

運動の目的は自由意志にもとづく(成人)女性と少女の間の恋愛を社会的・法律的に承認させることで、その目標のために、女性・少女間恋愛への理解と援助を打ち立てること、世論への啓蒙、同性愛やフェミニズムなどの解放運動との協力、性的偏見や抑圧からの個人の解放へのサポートを行うとしている。さらに、児童の社会的・経済的・政治的権力の強化や自由意志によるパートナー選択権の尊重を主張し、法的には性交同意年齢への反対などの立場をとる。この活動の源流は様々で、その一部にレズビアン運動やフェミニズムも含む。

女性少女愛(female girllove)は肯定的な言い方で、女性児童性愛(female pedophilia),レズビアン児童性愛(lesbian pedophilia)などと呼ばれる事もあり、キリスト教根本主義、キリスト教右派などの宗教保守派から激しい攻撃を浴びている。

アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ


2009年01月12日

ヨーク公女エリザベス殿下

1926年4月21日 - 1936年12月11日
ヨーク公女エリザベス殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)
1936年12月11日 - 1947年11月20日
エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth)
1947年11月20日 - 1952年2月6日
エジンバラ公妃エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)
1952年2月6日 -
女王陛下(Her Majesty The Queen)

欧州での競馬のイメージは日本のそれとは大きく異なる。エリザベス2世も競馬ファンとして知られており、王室が開催するロイヤルアスコット開催時には毎年宮殿から馬車でアスコット競馬場へ向かうのが慣例である。ちなみにロイヤルアスコット開催のレースで優勝した優勝馬関係者はエリザベス2世など出席のイギリス王室主催のお茶会に招かれる。

また、エリザベス2世は馬主としても多く馬を所有しており、自身の所有馬が出走する時競馬場に出向くことも多々ある。イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、アメリカ合衆国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、イギリスの植民地であった香港の「オードマピゲ・クイーンエリザベス2世カップ」等世界各地にエリザベス2世の冠と付く競走が多く存在している。

主な所有馬
Aureole(オリオール) - キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。この馬が活躍した1954年はイギリス首位馬主に
Highclere(ハイクレア) - 1000ギニー、ディアヌ賞(仏オークス)。日本ではディープインパクトの曽祖母として知られる
Dunfermline(ダンファームライン) - オークス、セントレジャーステークス(アレッジドを破る)
Height of Fashion - ナシュワンの母
Pall Mall - 2000ギニー

逸話
執務の一環として、老若男女あらゆる階級から届けられた中で厳選された手紙を読む。内容は主に女王に対する願い事。また最近では電子メールにも目を通している。
愛犬家であり、少女時代に父王ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼っている。その他にレトリーバーも飼っている。国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。
コーギーを飼っていた日本人が出した手紙に女王の名代で返事の手紙が来たことがある。
「クイーン・エリザベス」というバラが即位の年に出された。在位50年の記念の年には「ジュビリー・セレブレーション」というバラが贈られている。
若い頃に熱中したことがきっかけでクロスワードパズルを解く事が趣味。毎朝目を通す新聞(サン紙などのタブロイドも含む)に掲載されているクロスワードを空き時間などに解く。
孫のウィリアム王子が恋人ケイト・ミドルトンからクリスマスプレゼントとして贈られたWiiを気に入っており、『Wii Sports』のボウリングでは81歳には思えない実力を披露したと言われる

ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

2009年01月20日

ノートン・モーターサイクルUSA

アメリカ合衆国オレゴン州に拠点を持つノートン・モーターサイクルUSAの社長ケニー・ドレアは、現代的なデザインを施した『コマンドー』の復活販売を発表した。2005年に『952コマンドー』として限定台数が発売され、続けて『961コマンドー』などシリーズ化が検討された。しかし、この計画も2006年4月に報告されたニュースによると、頓挫した模様である[15]。

かつてのレーサーとメカニックたちが興した会社UKノートン・ホワイト[16]は、現在でもレース用または一般用モデルの修理や改造を請負い、またパーツなどの製作も行なっている。

逸話
ノートン車に乗った有名人の中には、当時医学生であった後のマルクス主義革命家チェ・ゲバラがいる。1951年、友人のアルベルト・グラナード(en)と連れ立って愛称「The Mighty One」と名づけた1939年製ノートン500で南アメリカを放浪した様は、著書『モーターサイクル南米旅行日記』に綴られている。残念ながら愛車「The Mighty One」は道中で壊れてしまい、旅を全うすることは出来なかった。

アメリカのコメディテレビドラマシリーズ、『サイク』(Psych)の登場人物ショーン・スペンサー(en)が乗るオートバイはノートンの『コマンドー750』である。また、ドラマ『ダークジャスティス』第1シリーズでは、主人公のニック・マーシャル裁判官は1969年製ノートン『コマンドー』に跨り活躍する。ただし、第2シリーズでは他のマシンに変わってしまった。
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

^ "IanChadwick Britbikes Histories" (英語). ianchadwick.com. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton CS1" (英語). Is-it-a-lemon. 2008年1月11日 閲覧。
^ "1940-1946" (英語). NortonMotorcycles. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton Manx" (英語). Is-it-a-lemon. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton 500 Manx specifications" (英語). MotorbikeSearchEngine. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton Motorcycle" (英語). BestMotorcycleGear. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton P11A on Display" (英語). RealClassic. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Matchless" (英語). Prodigal son. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Norton Commando" (日本語). Kim’s House. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Introduce my Norton Commando" (日本語). Ian Chadwick. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Commando Fastback" (英語). Is-it-a-lemon. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Dominator 99 Build" (英語). RealClassic. 2008年1月11日 閲覧。
^ "Combat Questions & Comments" (英語). NTNOA. 2008年1月11日 閲覧。
^ クリス・パーキンズ著『Norton Rotaries』(Osprey Publishing、1991年、ISBN 1855321815)
^ "Goodbye Norton Again、2006.04.14" (英語). Businessweek. 2008年1月11日 閲覧。
^ "ホームページ" (英語). UK Norton White. 2008年1月11日 閲覧。

2009年01月28日

黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)

黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)とは、日露戦争中の1905年1月25日?同年1月29日にロシア陸軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり日本軍は緒戦は苦戦したが、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘とも言う。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

作戦前の日露両軍の状況
1904年2月10日に起きた日露戦争は、満州において鴨緑江会戦、金州南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦を経た後に奉天の南側で日露両軍が補給を待つ間に長く対峙し(沙河の対陣)、長い膠着状態が続いていた。日露両軍とも寒さと砲弾を避けるため、東西の方向に塹壕を掘り、上部に掩堆を施し、両軍が土の中にもぐったような状態であった。

この状態に陥った原因は両軍ともに補給待ち状態になったためであった。日本陸軍は旅順攻略に伴う砲弾の大量消耗のために極端な砲弾不足に陥っており、このままではロシア陸軍に打撃を与えるどころか次の会戦でさえ実行できないような状態が続いていた。他方、ロシア陸軍は先に起こった沙河会戦により兵員不足に陥っており、また頼みの綱のシベリア横断鉄道はまだ単線であったため、補給が追いつかない状態であった。この補給状態は異常なほどであり、たとえば補給を継続して行うには貨車をヨーロッパ側に戻さなければならなかったにも拘らず、それを行わずに、極東に貨車を置き捨てても行っていた。しかし、兵員の糧食・被服なども輸送するため、そんな非常手段でもまだ追いつかない状態にあった。実際には、この時点でも日本陸軍に打撃を与えることは可能であったが、日本陸軍より少々兵員が多い状態ではロシア軍の総帥クロパトキン将軍はそれを行わなかった。

この状況においてロシア陸軍は「退却将軍」のあだ名をつけられたクロパトキンに加えて、満州にいるロシア陸軍を指揮できる人間を欧州より派遣した。それがグリッペンベルグ大将である。グリッペンベルグ大将は、派遣当初満州陸軍を二つに割り、その片方を率いるよう命じられたはずであったが、着任してみるとクロパトキンは極東陸海軍総督という地位にあり、依然として満州にあるロシア陸軍の全権を持っており、グリッペンベルグ大将は三軍に分割した第二軍のみの司令官という立場であった。

この立場にあって、グリッペンベルグ大将は日本陸軍への大攻勢を企画した。これが日本陸軍を窮地の底に陥れた黒溝台会戦である。

ミシチェンコ騎兵支隊の威力偵察
日露両軍の布陣(日本軍の左翼、ロシア軍の右翼部分)、黄色の破線は意図された露西亜軍の進行経路黒溝台会戦前にロシア陸軍の総帥クロパトキン大将は、一大騎兵支隊による偵察行動を試みることになる。

後に「ミシチェンコの8日間」と呼ばれる威力偵察行動がそれである。この威力偵察は、日本軍の敵情を知るとともに日本軍の後方の兵站基地である営口を襲撃し、その地に揚陸されてある武器・弾薬や食料といった後方支援物資を焼き払うことによって、ただでさえ補給に滞りのあった日本軍をさらに窮地に陥れるものであった。

この威力偵察行動を起こすにあたって、クロパトキン大将は1月3日ミシチェンコ中将を奉天にあった司令部に呼び、命令。

ミシチェンコ中将指揮下にある騎兵支隊とは、騎兵72個中隊、竜騎兵4個中隊、砲22門、総勢約1万人という一大騎兵支隊と呼ぶにふさわしい陣容であった。

この騎兵支隊は1月9日、ミシチェンコ中将によって日本軍陣地のはるか後方の営口に向かって進軍を開始。途中日本軍の電柱を倒したり、線路を爆破したりしながら、1月12日夜半目的地である営口に到達し、攻撃を行ったが、満足に目的を果たせないまま、退却を開始した。しかし、当初の目的である偵察においては、大いに目的を達成した。

日本軍の守備陣形と秋山少将の戦術
ミシチェンコ中将の偵察行動により、ロシア軍は日本軍の最弱点を発見した。このとき、日本軍は東西方向に大きく翼を広げたような格好で陣地を構築しているものの、場所によっては厚さにムラがあった。西側より順に秋山支隊、第二軍、第四軍、第一軍といった布陣で展開し、このうち第二軍、第四軍は中央を担当している関係上、最も厚く布陣されており、最も攻撃に適さず、それに次ぐのが第一軍で、東側の山岳地帯に布陣していたが、ある程度厚く布陣されていた。その結果、日本軍の最弱点は日本軍最左翼にあった秋山支隊ということになる。

秋山支隊とは秋山好古少将率いる騎兵支隊で、騎兵第1旅団(習志野)を中心とした歩騎砲の3兵種を備えた複合型騎兵集団であり、奥保鞏大将率いる第二軍に属し、日本軍最左翼を守備していた。しかし、その陣容は40km余りある正面をわずか8000人程度の人員で守備するという心細いものであった。

これをどうしても守備しなければならないとなると、どうしてもどこかに無理が起こるようになる。そこで、「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山少将は、拠点防御方式という騎兵としては相容れない考えの戦術を採用することになる。騎兵という兵種はその性格上、敵の最弱点に対し、その機動力と攻撃力をもって大打撃を与えるためにあり、秋山少将の考え出した拠点防御方式では穴ぐらに馬ごと潜ってしまい、これでは、騎兵のもって生まれた機動力が生かされないことになる。しかし、秋山少将はあえてその戦術を採用することによって、この無理な防御体制を何とか構築し、そしてこの黒溝台会戦のピンチを救うことになる。

この秋山少将の拠点防御方式には4大拠点があり、西部側より黒溝台に種田支隊、沈旦堡に豊辺支隊、韓山屯に三岳支隊、李大人屯に秋山支隊主力であったが、秋山好古少将は自分の司令部を奥第二軍との連絡のために支隊の一番右側に置き、また、戦力としても各師団に配属されている師団騎兵(連絡用)をわずかに率いているだけで、もともと自分の率いていた騎兵第1旅団を自分の手元には置かず、ロシア軍が突破するならその進路になりそうな沈且堡に主力を置き、豊辺大佐に指揮を執らせていた。

満州軍総司令部の錯誤
ミシチェンコ支隊の威力偵察行動は兵力も大きく、行動範囲も大きかったため、日本の騎兵による偵察で十分に察知されたものであり、秋山少将は、「敵の前哨活動が活発である。何か大作戦の予兆あり」と満州軍総司令部に対して幾度となく重大な警報が送り続けた。しかし、その警報はことごとく黙殺された。更に先に述べたロシア軍のシベリア鉄道による補給活動は、あまりに活発であったため、その情報は日英同盟の誼もあって、ロンドンのイギリス軍の情報部より日本大使館駐在武官を経由して、列車の運送状況などの細かな情報がふんだんに入り、その情報は地球を半周し、東京の大本営を経由して満州軍総司令部の机上にまで届けられた。しかし、その情報も結局黙殺されてしまった。

黙殺の理由は「この冬季にロシア軍が大作戦を起こすはずがない」といったものである。この時期の満州の大地は全土が凍り付いているという表現が当てはまるほどに凍結していて、糞便をしてもすぐに固まって石のようになり、ツルハシで陣地の構築を行おうとしても一日にわずか7cmしか掘れないといった感じであった。日本の満州軍総司令部の参謀達は、ロシア軍の習性として敵を撃退し、前進した後に必ず踏みとどまって陣地の構築をするという風に見込んでいて、この陣地の構築をすることが非常に困難なこの季節ではロシア軍でさえも攻撃を発起するはずがないと考えていた。

しかし、ロシア軍の習性として攻撃を発起するのは、ナポレオンのロシア遠征を見てもわかるように、冬将軍を味方にすることのできる時期であり、この時代から約40年後にナチス・ドイツが反撃されたのも、この時期であった。ナチス・ドイツの件は後の事なのでわからないにしても、ナポレオンの話は周知のはずである。こんな単純な情報も除外された。

さまざまな情報がすべて、ロシア軍の大作戦を予兆するものであるにもかかわらず、満州軍総司令部がこれらの情報に目を向けないという状況において、ロシア軍の大攻勢が実施された。この初歩的な錯誤はのちのちまで大きく響き、日本軍の左翼は全線に渡って、崩壊寸前にまで追い詰められるのである。

会戦開始から一度目の応援
グリッペンベルグ大将が総勢10万人に及ぶ大兵力を率いて、攻勢を開始した際、日本側の満州軍総司令部はこの時点でもまだ威力偵察ぐらいに考えていた。1月22日鳥邦牛にて、騎兵第2旅団の将校斥候がロシア騎兵に遭遇し、ほぼ全滅に近い状況が起こっても、それでもまだ威力偵察ぐらいに考え、一応手当てとして、第8師団(弘前)を応援にやる程度にとどまった。この第8師団は、師団外の兵力として後備歩兵旅団を付属しており、兵力的には2万人程度のものであった。威力偵察程度に考えていた総司令部は、この第8師団のみで対応できると考えてしまったのである。この弘前第8師団を率いるのは、日本陸軍の最古参の中将であり、維新の幕府軍側の生き残りである立見尚文であった。しかし、この応援が少なすぎた原因のひとつとして当時全日本軍の戦力が枯渇しており、旅順は開城したとはいえ乃木大将率いる第三軍はまだ旅順からの途上にあり、全日本軍の予備軍はこの第8師団しかないという状況でもあった。

立見は1月24日総司令部より準備命令を受け、翌1月25日正午に「黒溝台を救え」という命令の立見が受け取ったときには、黒溝台には地平線を埋め尽くさんばかりのロシア軍が押し寄せていた。秋山少将の4大拠点はどこもロシア軍の重圧を受けており、雪の中をロシア軍の銃砲弾が飛び交うという状況にあった。

秋山少将ははじめロシア軍の重圧が韓山台あたりに大きくかかってきたため、三岳支隊がいる辺りがロシア軍の攻撃目標と見誤り、隣の沈旦堡の豊辺新作大佐に対し、三岳支隊に応援を出すように指令した。このため豊辺大佐は三岳支隊応援のため、一隊を編成、小池順中佐に指揮させ、応援させることにした。ところが25日夜ごろから沈旦堡付近のほうが戦況として激烈になり、豊辺大佐は後方にいた別系列の後備歩兵第31連隊の小原文平中佐に支援を請い、小原中佐は豊辺大佐支援のため2個中隊を派遣した。

このころ立見中将率いる第8師団は戦線のはるか後方より零下30度近い寒気の中を前線へと駆けつけ、26日夜に大台まで駆けつけた。ここで、第8師団の由比光衛参謀長は救援すべき猛烈な攻撃を受け続けている黒溝台の陣地を捨て、後で奪い返すように考案し、秋山少将の指揮下の部隊であったにも拘らず、総司令部の命令で種田支隊を退却させた。しかし、ロシア軍は一度奪った黒溝台陣地を再構築し、ロシア軍の拠点陣地として活用し始めた。このため、第8師団は一度捨てた陣地をまた奪い返さなくてはならなくなった。それでも第8師団は黒溝台を奪い返すために展開をはじめ、それが終わったときにロシア軍が総力を挙げて襲い掛かってきた。このため、第8師団は秋山支隊を救援するどころか、自分たちさえ窮地に陥った。

日本軍の増援投入とロシア軍の撤退
日本軍の満州軍総司令部は、手持ちの兵力(予備軍)が限られていたことと、状況が錯綜し、情勢の把握ができていなかったことから、兵力の逐次投入という戦術上行ってはならないタブーを行なった。まず最初に、救援に送った第8師団がたちまち窮地に陥り、第8師団の参謀長が満州軍総司令部に「聞いてた話と違う」と噛み付いたときから、日本の満州軍総司令部はかなり狼狽した。

この状況において、さらに救援を送りたくとも総予備軍を使い果たしていた日本軍は、やむなく中央部を守備している奥第二軍より木越安綱中将率いる第5師団(広島)を26日夜派遣することに決定。さらに、27日日本軍最右翼を守備している黒木第一軍より西島助義中将率いる第2師団(仙台)の一部、28日には奥第二軍より大島義昌中将率いる第3師団(名古屋)が派遣された。

このように派遣された兵力は4個師団と後備歩兵旅団が1個、砲兵連隊が2個連隊の大規模なものになった。このため、満州軍総司令部は立見中将の統一指揮の下に「臨時立見軍」として行動させようとしたが、 ?立見尚文率いる第8師団は軍としての準備がなされておらず連携出来なかった。 ?立見尚文自身も第8師団の動員が遅かったため、敵情に暗かった。 ?立見尚文より古参の中将がおり、序列上命令することが困難だった。 というような理由から実現せず、「臨時立見軍」は戦史上だけの幻の軍となった。

この応援軍は28日朝から、秋山支隊の各拠点に入り、秋山支隊に重圧を与え続けるロシア軍を撃退しだした。28日夜、立見中将率いる第8師団はロシア軍に師団をあげて夜襲を行い、29日朝黒溝台を占領した。しかし逸話に寄れば第八師団部に秋山支隊からきた稲山利通海兵中佐と元々黒溝台に駐屯していた種田支隊の協同奇襲という。だが実際のところ、ロシア軍は28日夜に出された奇妙な退却命令により撤退しただけに過ぎなかった。

ロシア軍の敗因
兵力的にはロシア軍は負けるべくして負けたわけではない。日本軍の参加兵力は約5万3千人、死傷9千3百余人。それに対し、ロシア軍の参加兵力は約10万人で、死傷約1万人。28日の時点で、日本軍側はたとえば立見中将率いる第8師団が死傷5割程度(ほぼ全滅に等しい損害)であったことを考えても、ロシア軍側はまだ健全な兵力が約9万人もあり、退却すべきではなかったといえる。これには、ロシア軍総帥のクロパトキン大将の意向が大きく働いており、このまま成功して日本軍に大打撃を与えてしまっては、いままでそれをできなかった自分の評価が下がると考えていた。このことは、グリッペンベルグ大将が辞表を本国に提出し、ロシア本国へ戻った後、日本軍の奉天大会戦開始前にクロパトキン大将が計画した作戦と今回計画された作戦とほぼ似ていることからうかがえる。つまり、さも自分が計画したかのように、同じ作戦を遂行しようとしていたと思われる。(司馬遼太郎『坂の上の雲』参照)

しかし、なぜ退却したのか不明な点もあるが、事実として日本軍はこれによってロシア軍の意図をくじき、ロシア自体も今作戦での負けを認めたことにもなり、ロシア国内に蔓延していた厭戦気分に大きく影響することになる。また、これよりのちにロシア軍が主導して大会戦を行うことはなく、のちの奉天会戦に至っては日本軍の意図に振り回され、はるか公主嶺まで退却することとなった。この会戦が日露戦争の流れを規定したといえ、さらに大きく見れば、ロシア帝国の崩壊の遠因ともいうことができる。

黒溝台会戦において主導的に戦闘を行いつつも、内部での不明瞭な決定によって戦闘を終了してしまったことは、日露戦争におけるロシア軍の体質的な問題を象徴しているといえる。

この会戦にて、野戦で初めて本格的に機関銃が使われた。それまでの野戦は榴散弾による砲撃と銃剣突撃を駆使した肉弾戦が主流だったのに対し、秋山旅団においては己の不利な部分(旅団の規模、装備、練成等)を塹壕の構築、機関銃の集中使用によって補う方法が模索された。その結果が、黒溝台の塹壕構築と機関銃の大量使用につながる。

この機関銃を装備した塹壕陣地をロシア軍は5:1の兵力差があったにもかかわらず、結果として突破する事は出来なかった。これは、この戦争において旅順要塞攻防戦、奉天会戦における塹壕と機関銃の大活躍と相まって「いかなる大軍と言えども、機関銃を装備した塹壕を突破する事は困難」という戦訓を残した。欧米諸国は当初この戦訓を真剣に受け止めなかったが、第一次世界大戦において西部戦線やガリポリの戦いでは双方が互いに塹壕を構築、対峙した上での大量消耗戦へと発展して行く。この方式が破られるのは、第二次世界大戦のドイツ軍の電撃作戦まで待つ事になる。

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